自分がやったことを振り返る。事がある。
意図的にというか、「あなた、一年前のこの頃はこういうのしてましたよね」というのが、SNSとかの投稿を途切れさせない重要な施策であろうので、その為に俺に示されるそうしたシステム側からの広告によって、だ。
しかし、そういうのを見る都度、「ああ、俺はあの頃こうしてたんだな」と、思い、また、俺の書いた文章の面白さ(これはハッキリ言っとくが、俺の文章は俺が読むといつだって俺にとって面白い。これは俺の系の話なので、誰がどうやってもそれを否定できない。ざまぁみやがれ)と、やった事、見た景色、撮った写真、そこに書いてない、嫁様とのパーソナルなちょっとした思い出なんかを、ふと思い出し、「ああよかったな、書いておいてよかったな。作っておいてよかった。今こうして、あの時を思い出せる。そして今、明日、俺は、去年の今頃と似たような楽しみに出かけるのだ」と、心になにか、汁がこみ上げるのを感じるんだ。
昔、まだ若かった頃、(お?今後の俺の人生でいうと今が一番若いのだが?オォン?)音楽というのは、自分、個人にとっての思い出の引き出しを開けるなんかまぁそういう奴みたいな事を思っていた。で、それは実際にそうだ。
RCサクセションの「夜の散歩をしないかね」を聴くと、今でも大学2年目の頃の、大学寮の夜の、初夏の、湿った青のにおいを思い出す。
俺の場合はそうだけど、みんなそれぞれそうした、なにか記憶の扉を開く、引き出しを開けるような音楽があり、聞くと思い出す。そういうもんだと思う。(なお、ミスチルのシーソーゲームを聴くと、北18条の北大通りのローソンを思い出す。あそこで立ち読みしてて、ローソンシーエスホットステーションで流れるシーソーゲームのサビの「不思議なくらい」を「死にたくない」に聞き間違えて、なるほど迫力のある曲だな。と思っていたのだ)
で、まぁ、それよりは、もっと情報量が多く、自分が実際にやった事の記録、それを自分というフィルターを通し、きっと誰かに読んでもらう事を期待して書いた、文章や貼り付けた写真、なんなら動画が、残っていて、それは、数年後の俺に、届く。そして、まんまと誘いに乗り、俺は、過去の俺が書いた、当時の俺が面白いと思って書いた文章、写真、動画を読んだり見たりする。
満ち足りている。
足るを知る、という境地とは違うけど、自給自足じゃん。未来への遺産じゃん。
俺は、これからも、自分が面白いと思う事をいつも書くだろう。書くことがしんどいような事は多分残念ながらまぁ書かないと思う。辛い思いして、なおかつ自分も辛くて、更に誰かに読んですら貰えなかったら、俺はきっと泣くだろう。それは悲しい。俺には出来ない。
俺はこれからも、俺が楽しいと思う事を書き、俺が楽しくあるように、俺のやりたい事を、ほかの事はあんまり気にせず(いくらやりたくなっても、全裸外出はダメだよね♡)、やっていきたいし、いつか疲れた俺の為に、俺を奮い立たせることが出来たらという願いも少しだけ込めて、自分のやった事、楽しい事を、このありがたくもほぼ無限なストレージがあるインターネットのそのへんに、べちょっと投げ残しておきたいと思う。
では!!!!